
第三部「湯気の記憶」
彼女は小さな鍋を火の上に置き、
お湯を沸かし始めた。
金属が温まり、
かすかな音が立ち上がる。
都会の部屋では滅多に聞かない種類の音。
やがて、
鍋の底から小さな泡が生まれ、
ゆっくりと上へ昇っていく。
湯気が立ち上がった瞬間、
部屋の空気が変わった。
乾いていた空間に、
柔らかな湿り気が混ざり、
その匂いが、
彼女の胸の奥に眠っていた何かをそっと叩いた。
——ああ、この匂い。
理由は分からない。
けれど、湯気の向こうに
遠い昔の景色が浮かび上がる。
実家の台所。
母が味噌汁を温める音。
冬の朝、ストーブの前で手を温めた記憶。
友人と囲んだキャンプの焚き火。
どれも、もう戻らないはずの時間。
けれど、火の匂いと湯気は、
その時間をほんの少しだけ
現在へ引き寄せてくれた。