
しっくいを練る音が、
春の朝の客間に静かに響いていた。
水を吸った石灰は、
その日の湿度を正直に映す。
重いのか、軽いのか。
押し返すのか、沈むのか。
彼は手のひらで確かめながら、
道具をゆっくりと持ち上げた。
今日は、
少し急ぎ足のしっくいだった。
角又糊を少し足す。
それだけで、
乾きの歩幅がわずかに変わる。
客間の壁には、
あらかじめ塗り付けて盛り上げた砂漆喰の下地が
ほどよく締まっている。
その面に、
彼は“型”を当てて蛇腹を引いた。
型のわずかな傾きで、
面の表情が変わる。
乾きが早ければ割れ、
遅ければ沈む。
この技術が失われつつある理由は、
彼にはよくわかっていた。
「時間と手の折り合いで決まるんだよな。」
昔、師匠が言っていた言葉が
ふと胸の奥で響いた。
しっくいが半乾きになった頃、
彼は灯炉に火を入れた。
器の奥で蝋燭の炎が揺れ、
客間の白い壁に柔らかな影を落とす。
炎の光を横から透かす。
彼は知っていた。
この角度でしか見えない“白”があることを。
影は、
乾きかけたしっくいの表面を
そっと撫でるように動き、
まだ固まりきらない“白”に
微細な陰影を刻んでいく。
客間の白い壁が、
灯炉の火に照らされて
まるで呼吸しているように見えた。
乾きゆく途中の、
ほんの短い時間だけ現れる表情だった。
しっくいの白は、
完全に乾けば静かに閉じる。
だが今はまだ、
火の揺らぎに応える柔らかさを残している。
「時間の技術は、
時間の中でしか見えない。」
彼は型を置き、
灯炉の火を見つめた。
火が照らし、
時間が仕上げ、
手が残す。
その三つが揃ったとき、
客間の白はただの壁ではなく、
“記憶の面”になるのだと
彼は静かに気づいた。
灯炉の火が、
乾きゆく白の表面に
最後の影を落とした。