「すりガラスの向こうに残ったもの」

春の夕方。  
地方の家に帰ると、 玄関のすりガラスが、
薄い光を受けてぼんやりと白んでいた。

指で触れると、 ざらりとした感触が返ってくる。

「梨地(なしじ)」

もう作られていない、昭和のすりガラスだ。
母が好きだった模様だった。

部屋に入ると、 あめ色の灯炉が棚の上に置かれていた。
掌に乗るほどの小さな器。
釉薬の艶が、 長い時間を静かに閉じ込めている。

彼女は灯炉に火を入れた。
湯気がふわりと立ち上がり、
部屋の空気がゆっくりと変わっていく。

すりガラスの向こうに、 かつての台所の影が揺れた気がした。

母が立っていた場所。
祖母が味噌汁をかき混ぜていた音。
冬の朝の湿った匂い。
夏の夕方の風の通り道。

すりガラスは、 いつも“生活の輪郭”だけを見せてくれた。

はっきりとは見えない。
でも、確かにそこにあった。

彼女はそっと呟いた。

「このガラス、もう作られていないんだって。」

言葉にした瞬間、 胸の奥がきゅっと痛んだ。

失われたのは、 ガラスだけではない。

あの頃の生活の速度、
声の高さ、
湯気の匂い、
影の揺れ。

全部が、すりガラスの向こうに置いてきたものだった。

灯炉の火が揺れる。
湯気がすりガラスに淡く広がる。

その模様が、 まるで母の手の動きのように見えた。

「見えないのに、  どうしてこんなに思い出すんだろう。」

涙がひとつ、 あめ色の灯炉の縁に落ちた。

すりガラスは、 今日も曖昧なまま、
しかし確かに、 家族の記憶を透かしていた。

人が見失ったものは、  いつも火のそばで思い出される。