「灯炉の火が整えるもの」

夜の都市。
窓の外にはビルの灯りが並び、
部屋の中は静かだった。

久しぶりに押し入れを開けると、
古い着物が一枚、丁寧に畳まれていた。
母が仕立ててくれたものだ。

「もう着ることもないと思っていた。」

そう呟きながら、 彼は灯炉に火を入れた。
掌に乗るほどのあめ色の器。
釉薬の艶が、都市の光を柔らかく受け止める。

湯気が立ち上がる。
火の揺れが、 部屋の空気をゆっくりと変えていく。

着物を広げると、 布の重みが手に伝わる。
帯を締めると、 背筋が自然に伸びた。

「そうだ、こうだった。」

忘れていた所作が、 身体の奥から戻ってくる。

都市の光は冷たい。
けれど灯炉の火は、 静かに温かい。

スマホの通知が鳴る。
彼は見ない。
火の揺れだけを見つめている。

着物の重みが、 身体の中心を静かに整える。

「忘れていたのは、  技術じゃなくて、  この静けさだったんだ。」

湯気がすりガラスに淡く広がる。
都市の夜が、少しだけ遠くなる。

人が見失ったものは、  いつも火のそばで思い出される。