「灯炉の火が覚えていたこと」

春の終わり、地方の家。

長い冬を越えた畳の匂いが、少し湿っている。
押し入れの奥から、古い桐の箱を取り出した。
母がしまっていた着物だ。

箱を開けると、 あめ色の灯炉が目に入った。
掌に乗るほどの小さな器。
釉薬の艶が、年月を静かに閉じ込めている。

彼女は灯炉に火を入れた。
湯気がふわりと立ち上がり、 部屋の空気がゆっくりと変わっていく。

着物を広げると、 布の重みが懐かしい。
母の手の動き、祖母の声、 冬の朝の湯気の匂い。
すべてが、火のそばで静かに蘇る。

帯を締める手が震えた。
忘れていた所作が、 身体の奥から戻ってくる。

「この着物、母が最後に着た日も、灯炉の火がついていた。」

彼女はそう呟いて、 火の揺れを見つめた。

湯気がすりガラスに淡く広がる。
外では風が吹いている。
けれどこの部屋だけは、 時間が止まっているようだった。

着物を着終えたとき、 彼女は静かに目を閉じた。
涙がひとつ、 あめ色の灯炉の縁に落ちた。

人が見失ったものは、  いつも火のそばで思い出される。