
都市のマンションの一室。
ほとんど使われなくなった和室の押し入れを開けると、
古い桐の箱がひとつ、静かに置かれていた。
母が残した着物だった。
箱を開けた瞬間、 ふわりと、懐かしい匂いが立ちのぼる。
けれど、手はぎこちなく止まった。
「どうやって着ていたんだっけ」
帯の締め方も、襟の合わせも、 すっかり忘れてしまったように思える。
都市での生活は、
速くて、
まっすぐで、
余白がなかった。
着物の柔らかさが、 今の自分には少し重たかった。
彼女は灯炉に火を入れた。
湯気がふわりと立ち上がり、
部屋の空気がゆっくりと変わっていく。
火の揺れは、 都市の光とはまったく違う。
柔らかくて、 どこか懐かしい。
その光に照らされると、 手が自然に動き始めた。
「そうだ、こうだった」
帯を巻く手つき。
襟を整える角度。
布の重みを受け止める姿勢。
忘れたと思っていた所作が、 火の前でゆっくりと戻ってくる。
着物を着終えたとき、 彼女はふと気づいた。
母が着物を着るとき、 いつも灯炉の前だった。
冬の朝、 湯気の立つ台所の匂い。
すりガラス越しの柔らかい光。
母の背中。
布の音。
火の揺れ。
そのすべてが、 灯炉の火に照らされて、 静かに蘇ってくる。
彼女は思わず、 帯にそっと手を添えた。
「忘れていたのは、 着方じゃなくて…… この時間だったんだね」
灯炉の火が揺れる。
湯気がすりガラスに淡く広がる。
都市のスピードの中で、 ずっと置き去りにしてきた“柔らかい時間”が、
そこにあった。
彼女は静かに目を閉じた。 涙がひとつ、 着物の袖に落ちた。
人が見失ったものは、 いつも火のそばで思い出される。