
彼は夜の自宅で灯炉に火を入れた。
固形燃料が静かに灯り、
薄い光が部屋の片隅を揺らした。
湯気が立ち上がる。
その白さの向こうに、
彼女の声がした気がした。
「無理しないでね」
胸の奥が、
ゆっくり沈んでいく。
同じ夜、
彼女は灯炉に火を入れていた。
小さな炎が、
暗い部屋の壁をやわらかく照らす。
湯気が揺れる。
その向こうで、
彼の声がした気がした。
「ちゃんと寝てるか」
胸の奥が、
静かに疼いた。
彼は思う。
あの頃の自分は、
忙しさを理由に、
照れを理由に、
弱さを見せたくないという
小さな意地を理由に、
彼女の温度を受け取れなかった。
湯気が揺れる。
その揺れが、
彼女の表情を浮かび上がらせる。
彼女は思った。
あの頃の自分は、
強がりを理由に、
迷惑をかけたくない気持ちを理由に、
自分の弱さを見せるのが怖いという
小さな誇りを理由に、
彼の言葉を素直に受け取れなかった。
湯気が揺れる。
その揺れが、
彼の横顔を思い出させる。
彼は思う。
いまになって分かるのだ。
あの言葉たちは、
自分を守るための
小さな灯りだったのだと。
どれほど愛されていたのか。
どれほど大事にされていたのか。
火の温度が、
胸の奥に広がっていく。
彼女は思った。
いまになって分かる。
あの言葉たちは、
自分を気遣うための
静かな温度だったのだと。
どれほど想われていたのか。
どれほど支えられていたのか。
火の揺らぎが、
胸の奥を照らしていく。
彼は、
湯気の向こうへ向かって
声にならない言葉を落とした。
「ありがとう。
気づくのが遅くて、ごめん」
その言葉は、
湯気に触れた瞬間、
静かに溶けていった。
彼女は、
湯気の向こうへ
小さく呟いた。
「ありがとう。
もっと素直になればよかった」
その声は、
湯気に触れた瞬間、
静かに消えていった。
別々の場所で、
同じ夜に、
同じ火を見つめながら、
同じ後悔と、
同じ温度に触れていた。
火だけが、
二人の残した温度のように
静かに揺れていた。
愛は、受け取られなければ届かない。
人は、失ってからようやく温度に気づく。
“強がり”は、愛を遠ざける。
愛は、言葉より“気配”で伝わる。
後悔は、静かに人を優しくする。
愛は、そこに在るうちに受け取らなければ枯れてしまう。
トゥイーブ
余白の方へ。